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史跡紹介

❶御神輿(一之宮・二之宮)

一之宮

正徳5年(1715年)
重さ:200kg
大きさ:高さ200幅150cm)

正徳5年(1715年) 京都麹屋通り三条上る。 船橋清左衛門 作 慶応4年8月、善知鳥神社が青森町鎮守神に命ぜられ、明治6年県社に列せられた際に善知鳥神社に奉納された。明治43年の安方の大火や太平洋戦争の空襲を免れ、今もなお保存されている。

二之宮

昭和62年(1987年)
重さ:400kg
大きさ:高さ210幅120cm

昭和62年、善知鳥神社正遷座1180年祭記念製作。浅草・宮本卯之助商店作。を記念し、また青森市活性化に役立てばと、このにぎやかな担ぎ御神輿は、大祭神幸式が行われる。毎年9月、青森活性化のために町内を練り歩く。

❷ 謡曲旧蹟(謡曲善知鳥)

昭和40年
謡曲 善知鳥(宝生流)世阿弥の作

諸国一見の僧が立山禅定を終へ、下山してそれから奥へ下らうとしてゐると、物凄しげなる一人の老人があらはれ出でて僧を坪びとめ、 奥へ下らるるならば外ヶ浜にて猟師の家を尋ね、去年の秋亡くなった我に蓑笠を手向けてくれよと、その妻子に言傳けを頼むのであった。 僧がそのしるしがなくてはといへば、今はの時まで此尉が着てゐたといふ麻布の袖を解いて僧に渡し、僧の立ち去るあとを見送りつつ、 姿を消したのである。僧は不審に思ひながらも、外ヶ浜に行きてその妻子を尋ね、ありし世の蓑笠を手向けてくれと言傳をなし、しるし の袖を渡したところ、その妻子の喜びは一方でなく、涙ながらに亡き夫、なき父を慕ひつつ、蓑笠を手向けて偲べば、僧は経を誦して懇 に弔ふのであった。ここに亡霊は御法の聲に引かれてあらはれ出て、いたく妻子をなつかしむ様子であったが、在世に犯した罪障に隔てら れて近づけず、果ては数多く殺して来た鳥類のために責られる地獄の苦しみを目のあたりに見せ、善知鳥が鷹となり、猟師は雉子となって追 ひせめらるる様などみせ呉呉も弔ひをたのみつつ消え失せたのである。

❸ 菅江真澄句碑

昭和32年
謡本名 白井秀雄。30歳で故郷を出て薬草や和歌の知識を伝えながら津軽、南部、松前を旅し晩年は佐竹を中心に日記や随筆、地誌などを残した。

江戸後期の民俗学者、歌人 菅江 真澄 宝暦4年~文政12年(1754~1829年)愛知県(旧三河国)豊橋に生まれる。菅江真澄と称したのは、晩年、秋田に居住したからである。真澄が青森に訪れたのは、都合三度である。最初の天明5年(1785)8月のときは、蝦夷地(現:北海道)へ、渡るためであった。大飢饉による餓死者の無惨な姿を見て、これ以上浜路をめぐることは、自らも飢える心配があると考えて引き返した。二度目の来青は、天明8年(1788)7月である。浅虫を経て青森、三厩から蝦夷地へ渡った。この時、鳥頭神社(現:善知鳥神社)に詣でた後、古い社の後が残っているということから、二本木のある丘(現:久須志神社)を訪ねている。又、この杜を見て「青森という地名もここがもとであろう。」と「外が浜づたひ」に記録している。三度目は寛政8年(1796)で二十余日滞在。青森の各集落、社寺、山野等を歩きまわり、伝承習俗や庶民の生活を「すみかの山」に詳しく記録している。なかでも注目されてことは4月14日、石神村の小さな祠のかたわらに「文永の碑があった」と記録していることがある。真澄の歌碑は善知鳥神社境内、荒川宗全寺(曹洞宗)に建立されている。なお、享和元年(1801)秋田に赴くまで、7年余の間に津軽関係では「津軽の奥」「外浜奇勝」「津軽のをち」などの紀行を残している。

❹ 死節碑

明治11年

明治11年2月17日、時の県令山田秀典が、西南戦争の戦没者の霊を祭るため、招魂祭を青森、善知鳥神社において執行、県民の来り列席せるもの千五百名余の盛大なるものであった。 山田秀典県令は、式後戦没者の功績を永久に伝えるため、死節碑の建碑を計画し、彼の文章家、依田百川編修官にその撰文、書を内田義修氏に依頼、同年八月出来、建碑がなったのである。 依田百川の碑文は、彼の石川鴻斉が「天下の名文也」と推賞したもので、いやしくも文章を語る者にして、これを知らざる者は無しとまでいわれたものである。

青森県死節碑銘(書き下し文)

天下死せざる人無く、亡びざるの身無し。独り忠孝節義の士は、其人死して而も其の魂は未だ嘗て死せざるなり。其の身亡びて、而かも其の名未だ嘗て亡せざるなり。若し夫れ百年の間に酔生夢死し、生て聞ゆる無く、死して名無き者は、其の人生くと雖も猶ほ死せるがごとく、其の身在すと雖も猶ほ亡ぶがごとし。忠孝節義の士、其の名声魂魄とこしえに摩滅せざるに孰ぞや、吾れ是を以て青森県死節の士に感有るなり。明治十年四月西郷隆盛叛し、薩摩を出で、肥後に入り、勢頗る猖獗。天子震怒す。詔して師を興し之れを征せしむ。兵結んで解けざること月を累ぬ、死者其の數を知らず。官軍戦益力む。賊遂に肥後を棄て、逃がる。官軍之れを追躡し日向大隈の間に轉戦す。賊焔遂に衰へ、死傷略盡く、九月隆盛誅に伏し、賊乃ち平ぐ。蓋し薩賊は剽悍、奮勇、無前、加うるに賊首の老謀深計を以てす。其の勢力固に尋常の寇賊に十倍するものあり。諸将の忠謀と士卒の義勇、生を軽うし命を致すとにあらんずば、其の勝負の數、未だ遽かに知り易からざるなり。是の役や青森県の士民の軍に従うもの千五百餘人、而して戦死する者、陸軍大尉村田成禮以下七十七余人、何ぞ其れ壮なるや、越えて明年二月十七日県令山田秀典、僚屬を率い之れを津軽の善知鳥神社に祭つる。士民貲を捐て、祭を助くる者千五百余人、是の日天気明朗、風塵動かず、黍稷豊潔、酒漿芳馨、楽音律に協い、登降數あり、觀者粛然として敬を起さざる莫く、皆嘆息して、以て死の栄、生より甚しきものありとなす。蓋し節義の人を感ぜしむるは此の如し。嗚呼、天下の人、貴と無く賎と無く、其の本年を以て、病みて死する幾萬人なるを知らず、而して其の姓名後世に著る者果して幾人ぞや。独り節に死るの諸人、家に豊祭、爼豆をめぐむ有り、天下後世忠勇を賛せざる者なし。之を生きて聞ゆる無く、死して名無き者に此すれば、其れ孰れか失、孰れか得、智者を俟たずして知るなり。祭典既に訖も、県人未だ足れりと為さず。碑を以て永久に垂れんと欲し、令に請う。令之れを許す。乃ち東京に馳せて余に文を徴す。余辱くも乏しき史館に受く、微顕闡出は其の職なり。得て辞すべからず遂に其の事を記すこと此の如し。 明治十一年八月 三等編修官 依田百川撰 内田義修書並題額

❺奥州街道終点記念の碑

平成3年

終点記念の碑は黒御影石でできており、揮ごうは北村知事。奥州街道は江戸時代五街道の一つで、東京日本橋が起点で終点はさまざまな説がある。江戸時代初期に著された「幕府撰慶長日本図」によると、当時津軽藩の出張機関が置かれていた青森市安方地域が終点とされているという。

❻芭蕉翁句碑

明治11年

碑文
名月や 鶴脛高き 遠干潟
(めいげつや つるはぎたかき とおひがた)

芭蕉は、平泉を見た後、Uターンしたが、奥の細道の本文に、「南部道遥かにみやりて死………」と書いている。 南部道は、盛岡地方へ通ずる街道で、この下りから、日田へさらに旅を続けたかった思いが伝わる。 また、細 道の紀行が終わった翌年の元禄三年に書いた「幻住庵記」に、「猶うとう啼そとの浜辺よりに、えぞが千しまをみやらむまでど、 しきりにおもひ立侍るを………」とも書いている。外が浜から北海道を見たかったのだが、同行の曾良が病弱な師の身体を思い、引き止めたのだ。

❼善知鳥神社社標

明治34年

❽海軍の碑

昭和61年

表文面
「海軍の碑」 青森県知事 北村 正哉

裏文面
我々は決して忘れません 兄らが海の防人として祖国と同胞の安泰を念じ、 その楯として散っていかれたことを 我々は誓います この平和と繁栄が兄らの献身と犠牲の上に 築かれえていることを 永久に伝えることを
昭和61年10月 建立 青森県海交会 謹書 三上 蘭堂

❾宮川翠雨書碑

平成2年

白碑文
「夏雨の 青々と降る 古端渓」

平成2年5月 雨声会・河口俳句会建立 宮川翠雨略歴 大正元年9月28日生 昭和62年1月12日没 青森県文化賞受賞・青森市民表彰・日展評議員・雨声会主宰・河口俳句会代表

❿増田手古奈句碑

昭和60年

表碑文
みちのくの 善知鳥の宮の 小町草
(みちのくの うとうのみやの こまちぐさ)

手古奈 裏碑文
昭和60年7月 十和田青森俳句会 建立

⓫青森郵便局創業の地記念碑

昭和47年

表碑文
「青森郵便局創業の地」

裏碑文
青森郵便局は明治五年 太陰暦七月一日 この地に青森郵便役所として業務を開始し、爾来、国家社会の 進運と共に歩み続け、ここに百年の星霜を閲した 太陰暦七月一日は現在の太陽暦によると八月四日に當るので この日を開局記念日と定め、記念碑を建立し、遠く 創業の昔に思いを馳せ、先人の偉業を偲ぶものである 昭和47年8月4日 青森郵便局長 大内 忠治

⓬善知鳥神社建築記念碑

明治44年

明治43年5月3日、安方町の一角から火災発生し、折からの強風により、青森市の中枢部が壊滅するという、未曾有の大火となり、神社の社殿も灰燼に帰した。 しかしながら、同年には御本殿を造営することができた為、翌明治44年建築記念碑を建立

⓭青森市道路元標

大正11年

道路の起点又は終点を表示するための標識で各市町村に一ヶ所宛置かれている。

⓮龍神水

龍神は水の神様であり、海や水に関係する仕事や商売をしている人が、その繁栄、安全、そして災いを除く事を目的として、ここから湧き出る水を取り、蒔いたり、飲用する信仰が受け継がれている。